会津塗りの歴史

 産業としての会津漆器 ―販売と流通―

蒲生以前

産業としての観点から会津漆器を考える時、葦名時代にさかのぼって見なければならない。この時代にすでに、漆木栽培が奨励された。ただし、重点はむしろ漆蝋の採集にあって、安土桃山時代には信長に蝋燭千挺を献ずるなど、蝋燭の製造が盛んになっている。御用漆の徴収がなされ、木地師も存在しており(新編会津風土記)漆器が製造されていたことには間違いないが、地場需要を満たす以上のものではなかったようである。

蒲生時代

天正十八年に蒲生氏郷が会津の領主となり、城下町の建設を積極的にすすめた。反映を前任地の近江日野や伊勢松坂で氏郷は楽市楽座例を出して城下町の繁栄を図っている。会津においてもこの方針は貫かれたと考えられるが、重要産品であった蝋などは例外とされ、座存続の特権を認めた。

漆は蝋と一体のものであり、重要な原材料資材として漆樹の栽培奨励と漆木の本数調べなど、租税源としての漆蝋制度の強化が図られている。

また、氏郷は入部に際し、木地、塗の職人集を招聘したことは前述のとおりである。

加藤時代

漆器の製造盛んになり江戸への移出始まったといわれる。この時代、海東五兵衛なる人物が大和町に間口四十間奥行き二十間余りの漆器作業場を作り多数の職人を集中して製造し江戸に輸送したという伝説がある・しかしこの後の会津での生産形態からみて事実とは信じがたい。

保科松平以後

藩政初期

寛永一八年(一六四一)の『大島文書・塗師頭記録』に塗師仲間の記録が見られ、すでに産業規模としての職人数が確認できる。

寛文六年(一六六六)『会陽町街改基』に出現する漆芸関連の戸数集計してみると、「塗師一九〇軒・鞘師一六軒・蒔絵師二軒・青貝師二軒・木挽三軒・?燭屋一九軒/三二五六軒中」が数えられ、当時としては大規模な産地を形成していたと考えられる。

漆器商は如何であろうか。同文書中に「塗物棚」も一軒見つけることができるし、外にも『坂内文書』などにより塗物店の記述は散見されるが十七世紀後半の時点では、いまだ小規模の小売に過ぎないと考えられる。貞享二年(一六八五)の『惣町役儀之帳』によっても問屋がいまだ万問屋の形態であり、漆器問屋に特化していないことが確認できるであろう。

貞享期に入ると塗師は二百人余にふえて徒弟制による生産が行われていた。『天寧寺町風俗帳』に寄れば、この時期には塗師が直接他領の商人と取引を行っていたことがわかり、販売においても主導権を持っていたようである。一七世紀末には広く関東一円、東北更には紀州からも会津へ「塗物調儀」に来ている。『簗田文書・御用日記』。

一七〇〇年代(宝永~)に入ると塗物商売に関する記述が増える。酒造・麻苧商売との兼業、青物商売からの転業の例などがあり、ある程度資本を蓄積した商人の漆器業への参入を意味していると考えられる。前渡し金による生産支配も同時に始まり、商方優位の時代が始まった。

江戸出仲間の萌芽と成立

漆器業における株仲間の発展を残されている株仲間帳たどってみる。延享二年(一七四五)の『江戸塗仲間帳(簗田文書)』が現在知られている限りでは漆器商人仲間の最も古いものであるが其の中身は、「神社仏閣祭礼において見せ場の儀・・・」とあるように簗田氏統括下の地元での市場商人の仲間掟をそのまま踏襲したものである。

明和八年(一七七一)の「判形帳」にはすでにそれ以前から仲間入りの金子等が定められていたことが読み取られ、実際的な掟も細かく定められるようになる。

したがって、十八世紀中ごろに他邦移出型の株仲間が名実ともに整ったと考えてよいのではないだろうか。その後は天保期に一時廃止されたものの、幕末までつづき、仲間の数も相当数に増えている。また、溜銭など藩の税収の徴収機関としても大きな役利を担った。

寛政の改革

田中玄宰による寛政の改革で会津の漆器業は大きく変わった。技術的な面では京都より木村藤蔵ら、塗師、蒔絵師更には塗さび師を招き品質の向上を図っている。また、金箔、金粉の製造が始まったのもこの頃である。『簗田文書・御用日記』

一方商業の面から見ると、木地の売買も問屋を通すよう定められ漆器業全体が問屋によって統制される傾向が強まっている。藩の政策として、江戸を主なターゲットとする販売競争力をつけることを至上命題としたこと、そのために、問屋中心の商業効率の良い産業形態を目指したと言える。反面、前渡し金などを通して問屋による職人への支配的態度も強まった。

事実、江戸の塗物問屋黒江屋の仕入記録を見ると、会津からの仕入高は寛政以前の天明年間八年間の平均が約五百六十八両、享和一年から同じく八年間の平均が約千二百七十七両である。年度による増減が大きく一概には言えないが、寛政の改革期を境として会津からの仕入高はほぼ倍増している。『半田市太郎・近世漆器工業の研究』

寛政の改革で商業上のもう一つの目玉は、藩による「江戸産物会所」の経営である。『家世実紀』によれば寛政五年「江戸中橋横町へ産物会所被相立」とあり漆器は主なる取扱い品とされた。藩の交易係りの直計い品を扱うのが、会所の目的であり、その後漆器販売の藩専売化の構想もなされたが、度々の改善の努力はあったものの実際にどのように機能していたのかは判らない事も多く事実上は失敗に終わったと考えられる。

産物会所設立の裏には、漆器業の場合、江戸市場において価格が常に買い手優位に終止しせっかく発展した漆器産業が十分な利益をもたらさない点を改善したい思いがあった。遠路出府して急ぎ売りさばかねばならない地方商人の立場が、買い叩き、長期手形での支払など劣悪な取引条件に追い込んだ。出荷のコントロールを可能にして価格の安定を図ることがこの時代の根本的課題であった。こうした状況は、幕末にいたるまで変わらない。

明治維新とその後

維新の混乱で一時は市内の職人は四散し、最早産地の体をなさないかと思われたが、間もなく、復興への取り組みが始まった。

明治二年町検断から当局宛の商業復興案が提出され、主要産業である漆器業の原材料購入と生産設備金として一万四千両の融資を陳情している。時を同じくして、主なる漆器問屋等から、生産方役所宛度々融資の陳情がなされ、六千両の資金貸与を受けている。

当時の職人数は、塗職一七二戸八一四人、惣輪師五二戸二〇二人蒔絵師八〇戸三00人であった。

褒章条例

明治一四年褒章条例が施行されると会津は金銀木盃の受注に奔走し成功するが、厳しい規格があり、これが平極蒔絵技術の導入や、擦り型ロクロの発明のきっかけとなった。木盃生産は、直接疲弊した業界に貴重な利潤をもたらしたのみならず、木杯を高品質で早く安く製造する他産地にぬきんでた製造形態を完成させていった。

漆器組合

明治三年株仲間は解散し、直に塗店組合が結成された。

日本経済の実態報告「興業意見」が前田正名らによってまとめられ、これに基づき明治一七年農商務省組合準則が作られた、会津でも若松漆器商業組合が結成された。一九年九月には組合規約書が正式に作成されて県に認可を願い出ている。

さらに明治二七年には、漆器商、漆商、丸物塗師、板物塗師、木地師、蒔絵師の各部会からなる若松漆器業組合が設立された。同三四年には若松漆器同業組合として改組され、現在の組合の原型ができあがった

販路の拡大

岩越鉄道の敷設により、今まで関東地域中心であった会津漆器の商圏が一気に全国に拡大し生産額も増大した。輸送の利便だけではなく、運賃が馬車に比してかなり廉価になったことも幸いしている。

又この頃から、会津でも井桁の生産を手がけるようになった。大正七年に鈴木善九郎が井桁の木地生産の機械化を成し遂げた。塗装工程は従来の家内工業によったが、近代的生産システムの嚆矢となった。ついには、会津製が全国シェアの6~70%を占めるにいたった。

御大典とゴム版蒔絵

大正四年の即位御大典の記念養老盃三五万個を会津が受注した際、実に八十日と言う短期間で、完成しえたのは、前述した鈴木式ロクロとゴム版蒔絵の発達によるものである。ゴム版にポンジや野球ボールを台にして圧力を分散させることで、盃や椀のカーブ面にも綺麗に文様や文字を押すことを可能にした。上田某、池田晴吉らの工夫によるものと言われている。

これを契機として、会津においては単に手描きの代替ではなく、ゴム版彫が職人の一ジャンルになるほど高度に発展した。優れたゴム版師としては木村孝典の名が知られている。

工業試験場

熾烈な市場競争、特に紀州黒江との競合に勝つためには技術改良、デザイン向上が急務と考えられ、大正末期から組合により、漆器木工試験場の設立に向けての努力が続けられた。

大正十五年の『県立漆器木工試験場設立趣意書』によれば、競争力強化為とは言え、大規模工業化を目指さず、当時の家内工業的生産体制を維持しながら、廉価な小型機械の導入による効率化と、薫煙乾燥設備による木地品質の安定を試験場によって指導したいと願っていたことがわかる。蓋し、卓見といえよう。

昭和三年市の補助と組合の負担で漆器木工指導所設立。以後改組改称を経て現在の「県立ハイテクプラザ会津若松技術支援センターへ」とつながっている。

漆器の製作技術、意匠の開発、改良に指導的な役割を果たしてきた。別述するように昭和初期における輸出の健闘の一因ともなったと考えられる。

高級化への努力

初期から大都市移出型の産業として発展した会津漆器においては、競争に勝ち抜くため、基本的な品質の向上に加えて、絶えず魅力ある付加価値が必要であった。端的にいえば加飾の充実である。昭和一六年時点で蒔絵師数は、塗師の九〇%にのぼるなど、他産地に比して極めて多い。その中には、高度な本蒔絵を学び優秀な作品を残した人も多い。明治末ら戦前までの時期は篠原運吉、畑喜代蔵、津田得民、片桐白鳳、平田儀助、関谷彦蔵、歌川黎明、大島常三郎ら数々の名人を輩出した黄金期ともいえる。

合成樹脂漆器の開発

昭和六年大阪市立工業研究所庄野博士が会津漆器組合の依頼を受け開発した漆器用素地はフェノール系の合成樹脂でベークライトの類似品である。これにより会津では昭和十年頃からパーマライト会社で合成樹脂製造を始めたが、漆の喰い付きが悪く素地としての実用化には至らなかった。

しかし、戦後この経験が実を結び、新しく登場した尿素系の新合成樹脂に切り替えて大成功を収めた。

一方昭和三三年の国旗侮辱事件で日中貿易が途絶し漆不足が深刻な問題となった。このため代用漆としての科学塗料の使用が本格化する。また、科学塗料はスプレーによる吹付塗装が容易で、結果として、合成樹脂吹付塗装のいわゆるプラスティク漆器が会津漆器生産高の八割を占めるに至るのである。

現在の会津漆器

高度成長期が終わる頃から、プラスティク漆器の好況にも陰りが見え始める。皮肉なことにプラスティクが生活に浸透するにつれて、プラスティクそのものの機能美を是とし漆器風の外見を求めない意識が消費者に強まっていく。また、生活の洋風化が進み食器、調度が和風の外見を必要としなくなったことも一因であろう。

近年では漆器に、実用性はあるものの、手工芸的な味わいを付加価値として求める傾向にある。これはむしろ多品種少量生産の伝統的生産形態に向いたものである。合成樹脂の場合、金型による生産である以上大量生産でなければペイしない宿命が脱皮を困難にしており、曳いては今日の低迷を招いていると言える。

新しい技術

戦後の新しい加飾技術として、パット印刷やスクリーン印刷技術の導入がある。スクリーン印刷は精緻な文様が再現でき、複数版の使用によって、また、手描きとの併用によって複雑豪華な蒔絵が可能であり、比較的少量の生産にも適合するものとして広く普及している。

最新の技術革新としては福島県ハイテクプラザ会津若松技術支援センターが中心となって開発した自然乾燥重合漆をあげることができよう。漆の乾燥は漆に含まれるラッカーゼを活性化させて酸化重合反応を進めおこるものであるが、この漆の乾燥の仕組みに光を当てて、湿度の影響を受けにくい漆の研究開発を目指したものである。環境を選ばずに乾燥し、また、乾燥時間はたいへん短いなど、これまでの漆に見られない新たな可能性がある。調整すべき点もあるが、新たなる漆の活用の可能性を見出したといえる