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漆器商人と株仲間

江戸時代を通じて発達した各漆器産地の産業構造をそれぞれ完成した形で大まかに分類すると三つに分けることが出来る。第一は輪島、川連、津軽などの応需生産型、第二が会津(若松)、山中、駿府などの市場生産型、そして第三は黒江にみられるような第一第二の中間的形態である。第一型の場合職人、特に塗師屋が主導権を握り、木地、塗、加飾が其に従属する。第二型の場合商人(問屋)が主導権を取り、職方一般が従属的であった。第三の黒江の場合は問屋と共に塗師屋も流通に係わっていた。ここでは半田市太郎氏の分類に従い第一を職人型、第二を商人型、第三を職商並立型とよんで話を進めていきたい。

会津(若松)の場合、問屋は商品としての塗物の集積を行うのに、産地に置ける問屋的経営の買い問屋としての機能と、原資源の供給による問屋制的生産における生産問屋としての機能を合わせ持っている。

図  産業構造

こうした産業構造は、江戸時代を通じて漆器業を歴代領主が保護、奨励するとともに、 町人身分の塗物商人を中核として、山間居住の木地師や、惣輪師・塗師・蒔絵師などの職方を分断支配したために出来上がってきたという歴史的経緯があり、同じ会津地方でありながら、農民の農間期余業的な生産として展開された喜多方の漆器生産とは異なっている。

塗物商人は近世初頭においては、塗師ないし万商人が流通への門口であり、元禄頃から専業の塗物商人が現れ、問屋、問屋仲間、諸出仲間への発展の過程で塗師が流通から締め出され販売は商人の独占となったのである。特に、十八世紀半ば宝暦・明和頃には江戸を主とする消費地の問屋との関係に大きな変化が生じ、会津の漆器産業は全国規模の流通の中に位置づけられていったと言っても過言ではあるまい。文化文政期から幕末にかけては、前述した様な問屋制生産に職方が組み込まれた時期である。そして、江戸(東京)を最大の消費地とする流通体制と、商人型の産業構造は明治、大正、戦前の昭和期を通じて基本的に変わらず、戦後に到っても受け継がれている部分が多い。

小文においては、このような会津の漆器産業と漆器商人の発生発展の経緯を商業全体の発展変化の中に位置づけて考えて見ることとする。

葦名時代

中世末期の、会津の商業組織は簗田氏と同じく葦名氏の旧臣出身の吉原氏等がそれぞれの縄張りを持って市場商人たちを傘下におさめていた。領主葦名氏は、天正頃から領内の産業と商業の育成に力を入れていたようであるが、金融業者である土倉など極少数の特権商人を除いてはまだ、商業活動は各地で開かれる定期市を中心としたものであった。葦名盛氏は簗田氏を商人司に任じた。これによって簗田氏は市及び市祭りを取り行い、商人についての司法権を任され、関所通過のための鑑札を発行して手数料を徴収している。だが、この時点では簗田氏の支配はまだ領内全域には及んでいなかった。

この時代の塗物生産については資料が乏しく、伝説の域を出ないものが殆どであるが、『新編会津風土記』によれば、元亀二年(一五七一)に檜原から木地小屋村に木地師の移住があったという記事があり、また、葦名氏により漆樹栽培が奨励され、御用漆が徴収されていたことからも、領内で漆器が生産されいたことはほぼ間違いないと考えられるが、他領への移出がおこなわれるほどの生産量があったとは考えられない。

伊達政宗の会津入りによっても、簗田氏の支配権は安堵され、そうじて政策に変化は無かった。天正十八年に政宗は白金屋木左衛門に「會津郡中、守護不入の無嫌、蝋の役下置き候也、仍如件」(小熊家文書)という朱印状を下していることから、この頃蝋がすでに重要な産品として商取引の対象になっており、葦名時代からの漆木の保護統制はむしろ実からとれる蝋を重要視してのことだったことが分かる。 

漆器産業の始まり

天正十八年に蒲生氏郷が会津の領主となって、城下町の建設を積極的に推進した。氏郷は近江日野町、伊勢松坂で城下町の繁栄を計るため楽市楽座令を出している。氏郷が没し秀行が襲封した直後の文禄四年七月(一五九五)に浅野長政から蒲生の重臣宛に出された

「掟条々」に「当町の塩役.しほの宿、ろうやく、かうし役、駒役此ほか諸座これあるべ からざること」(簗田文書)とあり、これは氏郷の方針を踏襲したものと考えられるが、少なくとも文禄以降は、いくつかの重要産品除いて楽市楽座の政策が取られていたことが分かる。

また、氏郷は入部に際し近江君畑から木地師を招致したことが『会津風土記』にみえる。塗師もまた吉川和泉助を頭として組子の者四六人を連れてきたことが知らているおり、初めて、産業としての塗物の振興をはかろうとした。

木地師は始め城下七日町に屋敷地を賜り、始めのうちは原材を山元から城下まで農民賦役により運搬させるなど木地挽きの便をはかっている。塗師についても郭内に居住させ扶米を与えるなどし、その後城下に出されても、素人細工を禁じるなどして職人の保護をはかっている。

しかし、度々の禁令にも係わらずもぐりの塗師が跡を絶たず、慶長年間になると『塗師頭記録』に「秀行様御代、大石宗右衞門・油源左衞門と申者、白人ニ而塗師細工いたし、内所ニ而違背申大勢ニ而細工可致工仕候間、・・・」と言う記述が見え、漆器業が盛んになって特権的領主工業の枠組みに収まりきれなくなって来たことを物語っている。

一方漆・蝋については、蒲生、上杉、再蒲生、加藤を通じて政策は一貫しており、重要な原資材政策として漆樹の栽培を奨励するとともに、領内倹地においては漆木の本数を調べ租税元とするなど漆蝋制度の強化をおこなった。 

慶長四年(一五九九)には、漆木の自由伐採の禁止令が出され漆樹が藩の直接管理下に入った。この年の本数改めでは二十万本弱であったが、これが寛永十八年には二六万本強を越えている。 元和二年には、漆売買の掟が定められた。『新編会津風土記』によれば、

他所他国よりあきなひうるし入候儀、堅御停止候。口々相止留候へ共、若町中にて漆売かひ有之者、宿共に可被行曲事之間、可成其意者也

として、領外から漆を購入することを禁じている。これは領主が恣意的な値段で漆を販売 し、かつ専売の漆を用いさせることによって漆器の生産管理をも行おうとしていたことを 物語っている。また、慶長六年(一六〇一)には商人に蝋を販売することは堅く法度であ る旨の禁令が出され、元和八年(一六二二)荷は年貢蝋を皆済した残蝋も全て領主が買い上げることが定められている。

このように、会津領内で最も重要な産物である漆と蝋が自由に市場に流通することが出来なくなったのは、交通の発達と商品流通の増大の結果領主が産物を専売し換金権を掌握した方が寄り有利であり、領外商人と領内市場が直接自由に結びついて、領主が疎外され商品流通が掌握し切れなくなることを恐れたためであり、農と商を分断して封建支配を確立するためたからである。重要産物を集中させて、城下町を経済的優位に位置づけようとする意図でもあった。

売買価格についても統制しようとする意図は現れて来る。寛永三年(一六二六)野沢原町の市の掟を下して、

一、市場売買は問屋直段可用之事
一、市場金銭差引商人問屋帳面可用之事  (『新編会津風土記』巻九十四)

とあり領主へ課役を収めている問屋の定める値段で売買するように定めて、すでに問屋を通じた流通掌握の考え方がみられる。

加藤明成の時代になると、寛永十五年(一六三八)の自序のある『毛吹草』が、「名物」として「陸奥 薄椀・同盆  会津漆」をあげており、すでに会津の漆が著名であったことが知られる。しかし、箔椀、箔盆を意味する「薄椀・同盆」が会津産だと特定することには無理があろう。

この時代海東五兵衛なる人物が大和町に間口四〇間奥行き二〇間余の漆器作業場を造り、多数の漆器職人を集中して製造し、多額の製品を江戸に輸送したため江戸街道では駅毎にその荷を見る盛況であったといい、そのため人呼んで街道五兵衛と称した。と言う伝説があるが、前述した蒲生氏郷招致の塗職人が集団で生産にあたった気配はあるもののこの後の会津漆器の生産形態をみると、このような形での漆器生産は行われていたとは考えにくい。

初期株仲間の発生

城下町が整備され、楽売楽買の政策と諸産業の生産力の向上による流通機構の変化を背景として、商業支配の権限も次第に分解されていき、町方商業にあっても、簗田家による直接支配という従来の形態は修正されて、新しい商人層を含む仲間組織を結成する傾向が現れてくる。

元和年間には既に現れているこうした初期の仲間組織は同業者が自主的に作ったものではなく、簗田氏の支配力の下に商人が強制的に加入させられたもので、組の中に上下関係があり、罰則規定を持つものであって、領外との自由な商売を妨げるものであった。そのため、寛永二年(一六二五)には、簗田氏が私的に構えて作ったものであるとして、訴えられたこともあったが、けして私的な目的のための組織ではなく、むしろ領主の支配を貫徹させるために有効なものとして組織されていたものだった。初期の仲間帳の前書法度に、その事が見てとれる。

一、其組々請人可取事
一、中間江不入者ニ木綿分口を越申間敷事
一、中間江入申候とて非分成儀申者於有之者仲間をはづし可申候事
一、御国之御沙汰何ニ不寄批判申間敷候
一、御留物商売仕間敷候事
(以下略)       (簗田文書.『木綿売中間帳』元和7年)

従って、この簗田市支配下の仲間・組は、その後も規模を大きくしていき、次第に公的な統一性をもつようになっていった。寛永19年(一六四二)には「商人仲間掟」として一つの定まった前書法度が定められその後法度に統一されて行く。そして寛文延宝期にはいって、一斉に統一された仲間組織が各種成立してきたのである。


一、御公儀寄り被仰出候万事御法度之趣、可相守之事
一、御国之御沙汰何ニ不寄批判仕間敷之事
一、御法度之物、何ニ而も売買仕間敷之事
一、押売押買仕間敷之事
一、売抜買抜仕間敷之事
一、於中間ニ、喧嘩口論万事如何様之義、出来申候共、為惣中間と、相済可申候事
一、古手何方へ参候共、為惣中間と、直段を立買可申候事
一、見せ場之儀、中間者壱所ニ可罷有候事。但、居り申処ハ右之次第、
一、此中間之内ニ、目ニ見へ大分之損仕候者、於有之者、惣中間より少宛合力仕、身上相立可申候事
右之条々、相背候者、於有之者、則中間をはつし可申候事。其時一言之異儀申間敷候
寛永拾九年 拾月廿日
(簗田文書『商人中間掟』)

但し、この寛永年間にはまだ中間を構成する商人たちは定店を持たない市場商人であったことも「見せ場の儀、中間者壱所ニ可罷有候事」あることから推測されよう。

城下町経済の発展

寛文・延宝期に入ると、城下町を中心とした藩の経済圏が確立し、簗田氏が最後まで拮抗していた高田市の統括者吉原氏をもその組下にした時期であり、簗田氏の統括する仲間に多く在郷成員が見られるようになる。そして、城下町を中心とした商業の発展で仲間成員が次第に経済力を蓄えて来ると、今まで商人達と領主との間に合って役人的機能を果たしてきた簗田氏の地位は相対的に低下していき、商人たちと領主の新たな関係が取り結ばれることになる。明確な資料は無いが元和期からぼつぼつ常設店舗を持つものが現れ、延宝期にいたって支配的になったと思われるが、店舗の常設化によって一層資本の蓄積が進んだであろうことは論を待たない。

この時期の漆蝋、及び木地はどのような状況であったろうか。年代を追って整理すると

寛永二十年(一六四三)には漆の国外移出が禁止され、
正保二年(一六四五)余漆の販売も奉行の手形付の許可が必要になり、
正保四年(一六四七)木地の類を無断で他方へ出すこを禁じる旨の令が出されている
同年       漆の苗木を植えることが奨励され
慶安二年(一六四九)漆木など第七木の伐採が禁止され
承応二年(一六五三)漆蝋の脇売りが禁止される。
寛文五年(一六六五)
ここに到って漆の領主による専売制は、ほぼ完成をみた。また、漆器の生産の増加による木地の不足、値上がりがおき、このように木地も御留物になっている。

職人仲間の結成とその後

塗師仲間の初見の資料は、寛永十八年(一六四一)の渋地塗師寄合に寄る「中間定」の改定についてのものである(『塗師頭記録』大島文書)。ただし、同じく『塗師頭記録』にこれより先の慶長期と考えられる記述が前掲のようにあって、素人細工を阻止するための仲間組織がすでにあったことを示唆しているのである。さらに、享保二十年の喜多方塗師の『□願書』に

且又細工等□抜き等無之様被仰付、其上御城下北方塗師共の儀は格別秘伝有之に付、 他方へ職業不致為に若松御諏訪宮にて塗師総集之上神文被仰付、則相守其□奉差上候
北方は小荒井村、塚原村、清次袋村、松新田村塗師総集会之仕、御役所より御出役有之、神文被仰付候に付相守り、若松同様之蒙仰り、其□奉差上候。

とある。保科正之時代の出来事と思われるのだが、領主側から強制される形での塗師仲間が存在したこと、その目的が特権を与える一方塗師の他領流出の阻止にあったことを伺わせる。

承応四年(一六五二)当時ともなると、塗師一四四人が二人の塗師頭の下に十組に編成されていただけでなく、「仲間定」を持っていて、品質管理、徒弟制維持について仲間の統制を図るとともに、漆価格の引き下げや、木地の移出と素人細工の阻止に努め、椀販売の自由を巡って城下町商人と抗争するなど、積極的且つ組織的な動きをしている。このことは、塗師仲間がその発生において上からの組織であったにも係わらず、彼ら自身の同職的組織として機能するように成ってきていたことを示している。蒔絵師、下細工人についても仲間組織があったらしい。

延宝から貞享期に入ると塗師が二百人余に増え、徒弟制による生産が行われていた。貞享二年(一六八五)の『会津風俗帳』に塗師が「段々塗出し申盆」を「他領之商人方」に地払しており、塗師が他領の商人と直接取引を行っていたことがわかる。

全国への普及

十七世紀後半は塗師が漆器産業の中心をなしていて、木地師に対しては直接の買い手として優位にあり、商人にたいしてもより強い立場にあった。 一七世紀末、元禄二年の『御用日記』(簗田文書)に、岩城平の伝右衞門なるものが、 「塗荷物調儀」のため来会しており、宝永年間二は三春、白河、棚倉、福島、米沢、庄内 、最上、越後、佐渡、秋田、武州、上総、野州、江戸、勢州、紀州、などから「塗物調儀 」にきている。これらのことから、この頃には会津が漆器生産地として産地体制を確立し ていたと考えられよう。

連句集『猿蓑』に「形なき絵を習ひたる会津盆」という服部嵐雪の句があり、また李由 .許六 の俳文『南紀ノ行』(『風俗文選』宝永二年)は伊勢参りの紀行文であるが「二 日、聖夜ぶかく起て、非番の男を起す。煤気たる行燈の影に、会津盆の打ちひらめたるに、日野椀の壺皿、いとさびしげにつきすえたり。見る目いぶせく胸ふさがり、やがてもかからず。・・・」とあって、元禄の頃すでに会津の漆器が「会津盆」と固有名でそれと知 られるほど行き渡っていて、その範囲は少なくとも伊勢辺りまで及んでいたことがわかり 、『御用日記』の記述の傍証と言えよう。

更に一点読み取れることは、「会津盆」が漆絵 でも書きなぐったものなのだろうか、どちらかというと粗末な物と評価されていたことで あり、会津蝋燭が「牡丹芍薬に敷金を盡し、蘇鉄海石に財をついやす。伽羅は文趾をくべて蚊ふすとし、燭は会津をたてて、月の光りを奪ふ。」『閑居ノ賦』(『風俗文選』宝永 二年)として高級品の代表とされているのと好対照である。また、会津漆器のレベルは「 日野椀」と同程度の物と考えられ、一緒に用いられていることも見てとれる。後述するよ うに、享保年間に江戸において日野と黒江が漆器産地として会津と競合関係にあることが知られるのであるが、すでに元禄年間にその萌芽があったのかもしれない。

全国的にみても、大阪に延宝年間、木地問屋が二軒、紀州五器問屋が二軒あったことが知られ(『大阪経済資料集成』第五巻)、江戸においても、明暦頃塗物屋の小売商仲間が出来ていたことが知られている。伝説的人物ではあるが、椀久こと椀屋九右衞門が、延宝四年没であるから、この時代に、漆器を商うことで豪商といわれるほどの規模の商売が出来たこと、即ちそれだけ生産と流通の量が増えてきていた事を物語っている。

塗物商人の台頭

寛文・延宝期を過ぎ元禄期に入ってくると、元禄七年(一六九四)江戸町人三谷三九郎御用金を調達して三十人扶を与えられ、元禄十年酒の運上銭の取り立てが始まるなど、次第に充実する商人に対する藩の経済的依存が始まる。

若松城下における塗物商人については、寛文六年(一六六六)『町中之由来』(簗田文 書)にあげられている商人の中にはまだ専業塗物商人は現れていないが、既に寛永から慶安かけての一の町棚商人の例にあるように、おそらく万商人として塗物を扱うものはあったと考えられる。

正徳二年(1712)の検断坂内氏の記録によれば、天和三年(一六八三)と元禄一六 年(一七〇三)にそれぞれ一軒づつ塗物店が開店している。しかしこの時点では、まだ慶安期同様、塗師による椀販売と並立していたと考えられ、小売店で一部行商人相手の卸を兼ねる程度のものだったと考えられる。

一七世紀に入ると、坂内文書にみえるだけでも、宝永四年、同六年、正徳二年、同四年、享保元年、同一四年、元文二年(一七三七)と続けて塗物商売に関する記事が出ており、次第に盛んになってきたことが分かる。これらのうち酒造・麻苧商売との兼業、青物商売からの転業の例があり、伝承ではあるが木綿太物商売からのこの時期の転業の例もあり、既成商人の参入が多い一方、前時代に盛んであった塗師による塗物販売からの専業化の事例を見出すことが出来ない。逆に商人が、前渡し金による塗物差引によって生産支配に到る傾向がすでに現れ、前掲の坂内文書にも、次のような類の記事が散見される。

私儀先年上七日町へ出店致塗物商売仕候処、大町二ノ町市丞と申物塗師細工仕罷有候 、依五年以前亥年(宝永四)、帳面へ判形為致塗物前金段々相渡シ差引候、  

更に、問屋の発生もあり、一七世紀における塗師中心から商方優位の時代へと移り変わっていくのである。

宝永二年(一七〇五)、白河湯本木地小谷の木地師達が、穀留に対する訴えをを出しているが(簗田文書)、これによってこの頃まで木地は木地師自身の手によって若松へ運ばれ塗師達に売り渡されていたことがわかる。ところが、宝永七年頃になると山で作られた木地は次第に仲買の手によって町に運ばれ始めている。これを禁止し、藩の指定の問屋三ノ町直右衞門、原ノ町八郎兵衞、当麻中町半助の三人を仲介として木地を塗師へ売却するように定めている。こうして、木地師は次第に流通から遮断され山間部に生産者として定着させられることとなる。

ここで 江戸時代の問屋の取引仕方について少し触れたい。

一七世紀前半の初期特権商人の問屋の経営方法は自己の資金で買い取った商品を卸売するのではなく、各地の荷主からの委託荷物を引受、保管管理するもので、販売手数料や(口錢)や蔵敷料を収益とする受動的なもので、荷受問屋とよばれる。各藩の年貢枚米や専売品の売り捌きに関係し、領主権力と結んで一国の産品多種を扱うことが多い。一七世紀後半になると商品ごとの専業の問屋が現れ、それらは地方から商品を買い取って自己の計算で仲買に売却するようになる。これが仕込問屋、または仕入問屋といわれるものである。

実際にはこの両者は江戸時代を通じて混在して存続しているが、加工業の発達と産地の多様化によって、従来の特権的問屋商人による流通支配は貫徹しなくなってくる。この転換期が十八世紀半ばなのであるが、次に述べる三河屋事件もこうした事件の先駆けとして捉えることが出来る。

三河屋事件

享保七年(一七二二)までくると、江戸商人三河屋が、江戸出塗問屋として江戸向け会 津漆器の販売独占願い出るという事件が起こった。

会津藩江戸屋敷出入り商人の三河屋清右衛門が、「御国より御当地え相廻り申候塗物・多葉粉商人共之問屋私ニ被仰付下置度」ことを願い出たことであるが、三河屋の提示した見積書によれば当時の塗物の江戸出荷分を椀一万個としており、同時に願い出ているたばこの独占を併せると、諸経費千五百三十両と御用金五百両を差し引いても千六百両余りの莫大な利益となる計算である。藩はすでに元禄年間に江戸町人三谷三九郎の御用金調達などにみるように、財政の手詰りにより大商人に対する経済的依存を強めていることがあって、この申し出に触手を伸ばしたのであろう。この三河屋の願い出に対して、翌八年二月、城下の塗物たばこ商人に支障の有無の問い合わせがあり、馬場町定善寺の惣町商人「寄合」で故障を申し立て、、阻止に成功している。この一件は会津における塗物商人の成長、江戸商人、及び三河屋と江戸における十組問屋仲間のうち塗物店組との関連において、きわめて重要な意義をもつ。詳しい顛末は以下の通りである。

三河屋からの願出

乍恐口上を以御願申上候 

一、御國元 御當地江相通り申候塗物、多葉粉商人共之問屋私ニ被仰付被下置度願上候左候へは慥成金元證人相立御請負仕度奉存候左様仕候へは御國元之商人之荷物若江戸ニ而時々相場下直ニ而商人共賣兼申候ハ 相應ニ金子ヲ取替右之商人共御國元江相返譯ニ而尤時之相場見合商人共之勝手ニ茂罷成申様ニ可仕候惣而商人共御當地長逗留仕候ハ 諸失却等大分掛り申候得者御國元之御責ニ茂可被成又ハ商人共之儀損ニ可被成奉存候へは(中略)

私ニ何とそ被仰付被下置候ハ 諸商人之會所相立(中略)御家中之御荷物壱ヶ月ニ江戸御屋敷 御國元江弐拾駄相届ケ御國元 江戸御屋敷江弐拾駄届ケ壱ヶ月合四拾駄宛之駄賃錢者私方ニ而相拂候御荷物無相違相届ケ差上ケ可由□候御大切之御荷物之儀御座候間御才料之儀者御屋敷様 御附取極可下置候道中諸入用 等私方 相拂可申候(中略)四十駄の駄賃銭者御奉公ニ仕差上ケ別紙書付金高之内を以毎高金五百兩宛御用金差上ケ可申候万一相滞申候右請負人證人 差上可申候(下略)

享保七年寅十一月                     三河屋清右衞門

御役人衆中様 

覚 

一、 塗物椀一萬個 但一ケ四十人前入一ケに付金二兩宛
藏式口錢の儀は一ケに付二目五分宛
塗物金高二萬兩程右の藏式口錢の金高八百三十三兩一分程

一、 多葉粉 四萬個 但一ケ四十斤入百ケに付藏式口錢金七兩宛
右藏式 口錢金高二千八百兩程

二口〆金三千六百三十三兩一分

土藏三十戸前 一戸前一ヶ月に金二分宛代金百八十兩

手代 二十人 給金飯米共に一ヶ月に付代金三百兩

働男 十 人 同  一ケ月に付代金百兩

内働の者 十人 右同断 代金百兩

駄賃錢        代金三百五十兩程

諸入用金 五百兩

右者有増積りに御座候

〆金千五百三十兩 但三千六百二十三兩一分の内
千五百三十兩引

残而 二千百三兩一分也

此内為御用金五百兩宛指上可申候

十一月                           齋藤清兵衞

 

三河屋側の条件と言い分を整理すると次のようになる。

1 三河屋が「金元」となり、証人を立てて請け負う。
2 江戸で相場が下値になり、商人たちが売りあぐねている時は、三河屋がすぐに金を立て替えて商人達が会津に帰れるようにする。そして、相場を見計らって商人たちの有利になるように売買を代行する。
3 三河屋が 商人の為の会所を設立し、長逗留による出費が嵩まぬようにする。
4 御家中の荷物を江戸から会津へ一ヵ月20駄、会津から江戸へ1000駄、運ぶ。
5  4のうち、40駄分については、運賃は三河屋が負担する。
6 荷物の運送取扱権は領主から取り決めて(三河屋に)与えてほしい。
7 道中の(運送費以外の)諸費用は、三河屋側で負担する。
8 別紙書き付けにある金高の内、毎年500両づつ御用度金として上納する。
9 もし、 8の金が滞った時は請負人と証人が負担して上納する。

会津側の反論

一、塗物の件、近年商賣薄に相成申候に付過半問屋へ荷物揚不申所縁或者近付最寄の方へ持參仕候類數多御座候、其上藏敷口錢雑用等掛り不申候様仕度御屋敷様方並店々へ直賣に仕、勝手次第に所々へ宿着仕候、尤塗物の件は利潤薄物に御座候へば店々へも相對直 賣に仕、御屋敷様方よりも御用の塗物御註文を申受け、其上細々の塗物作り合致參直賣に仕候へば問屋相立申候ては甚不益に奉存候事
一、紀州塗物日野塗物、其外國々より江戸へ出し塗物共勝手次第に所々へ持參商賣仕候處、御當地塗物問屋御定被成置候はばだ自然と塗物商賣彌々薄罷成、塗商人共塗師共に迷 惑可仕様に奉存候
以下略

会津側の言い分を整理すると次のようになる
1 近年は商いの利益が薄いので、問屋に持ち込む例は少なく縁者、最寄りのところに荷を置き、蔵敷口銭を節約して直接顧客や小売店に直売している。顧客、小売店と相對で注文を受けて細かいニーズに応ずるようにしているから、指定問屋制は不利益だ。
2 紀州、日野を始めとする諸国の塗物産地も勝手売りをしているのだから、指定問屋制
をとれば(産地間競争に負ける結果となり)商人のみならず塗師にとっても不利益だ。
なお多葉粉商人は、今まで受込問屋五、六軒の問屋に分散して指値で売っており、下値の場合高値の問屋に移して売買している。三河屋一軒に決められ、前金を受け取るようなことになると、値段については問屋のいいなりとなると懸念し、また蔵敷口錢が相場からみて暴利であるとして、反対している。
右の三河屋、会津側双方の申したてから当時の状況を考察してみると次のことが分かる
1) 三河屋は二種類以上の商品を扱っている。
2) 会津藩に多額の上納金を納めるかわりに、領主の権力を背景として、会津の商人達に対して特権的立場に立った売買をしようとしている。
3) 蔵敷口錢をとった委託販売の形式であるが、実際上は前金という形で仕入れて、自己の裁量で販売しようという意図である。
4) 会津の塗物商人たちは問屋を通さぬ直売りをしてきていたし、他産地もそうである
5) すでに、紀州、日野などの他産地と産地間競争があった。
この時点で三河屋は国問屋であってまだ完全な仕入問屋ではなく、買い手としての優位と問屋間の仲間組織によって、産地を支配するような段階にはまだ到っていなかった。従って、藩の権力に依存しなければ産地を支配できなかった。
それに対して会津側では、必ずしも消費地問屋を通さなければ荷さばきが出来ないほどの生産高には未だ達しておらず、顧客からの受注生産の一面も残っていたため、指定問屋制は搾取されるばかりで何らメリットがないこと。領主側もそれを押し切ってまで指定問屋制をとるほどには財政悪化は進んでいなかったことがあり、為にこの一件は会津側の商人の申したてが通ったのだと考えられる。
ところが、丁度この頃江戸では、享保の改革に伴い仲間結成令(享保六~十一にかけて)に始まる一連の仲間公認政策によって、すでに寛文~貞享に始まっていた江戸十組問屋仲間が江戸市場独占体制を成立させている。塗物についても専業問屋による江戸塗物問屋仲間(一番組・2番組)によって独占されることになり、地方の領主権力頼みとせずとも、産地支配を貫徹させていくことになる。従って、会津商人側の勝利も一時的なものでしかなく、後述する天保年間のような状態に立ち到ることになるのである。

溜銭制と問屋制度

三河屋事件でからもわかるように、享保期には会津の漆器商人は自らの手で江戸まで商品の販売に乗り出していたのであり、すでに問屋の機能も備えていただろうことが想像されるのである。記録の上でも、元禄十年(一六九七)には、一ノ町忠三郎なる塗物問屋が現れている(『御用日記』簗田文書)。更に享保一四年(一七二九)の椀問屋又三郎の記録(『塗師頭記録』坂内文書)によれば、



とあって、建前上は塗師からの委託の形をとりながら、じっさいは前渡し金による仕入れ
をしていたこがわかる。すでに単なる荷受問屋ではなく仕入問屋に近いものになっていたといえよう。
漆問屋もまたこの時期に成立している。塗物産業の発展に伴って漆の絶対量が不足し、藩は他国漆の搬入を認めざるをえなくなり、藩の専売制維持は難しくなってきていた。
宝暦十一年(一七六一)「御招請御婚礼等之御物入ニ依、」御内証の難渋と六年来の不作、加えて蝋の相場が下がったことで、藩の財政はかつてない危機を迎え、井深主水の発案で溜銭をはじめた。「義倉之主意ニ基キ諸商売物より口錢御取り立て被下仰付」と言うものである。魚鳥類、味噌、加羅油など十六品目余にかけられ、その中には、他所出之塗物も含まれていた。溜銭は所謂蔵出し税なのであるが、これが可能であった背景には既に商品流通の要を問屋が握っており、小売商人→問屋→検断というルートで売上把握がなしうる状況があった。逆に、この機会に問屋を通さない無印商品の摘発というかたちで、増えつつあった脇々商人を問屋制度の中に囲込んでいく目的もあったと思われる
この宝暦・明和の溜銭制は当初から年限を限ったものであり、途中責任者之井深主水が宛物手形発行の失敗により出奔するなど、財政破綻を救うものとはなりえず、明和七年(一七七〇)に廃止されている。しかし、藩財政の補ぎないと商業統制の目的でこの後も、天明の一時期を除いてはずっと続けられた。
明和四年(一七六七)年町奉行大元〆兼務井深主水が出奔した年、牧原直太夫が御暇をされているが、これも井深事件の一端であったと考えられる。直太夫は二ノ町町人平兵衞等とはかり、藩の財政立て直しのため、大坂商人越後屋家城太郎次郎に「会津惣塗物諸産物大問屋」を引き受けさせ、井深主水の内々の同意を取りつけて、自ら家来を使い、諸産物の買い付けに奔走するが、それに失敗したと言う事件である。この一件から、このころ
まだ江戸の問屋体制の変化が会津藩では充分認識されておらず、依然として、領主権力と特権商人の結び付によって商業支配と財政補填が可能であると考えていたらしいことがわかる。しかし、財政破綻による藩の威信の低下したこの時代、塗物に関してだけでも宝暦年間にはすでに板物漆器の制作が盛んであって膳椀のみならず手箱類から雛道具までそうとう多品目に渡ってきており、また仕入問屋の一般化した時代に前渡し金の準備のないこうしたやり方では、新規事業においては送り出す商品の集荷すら儘なら無くなっていたことが知られるのである。

塗物商人仲間の成立

江戸出塗仲間の初出は、宝暦九年(一七五九)年過ぎに書かれた資料ではあるが『延亨二年丑十月江戸塗仲間牒』(簗田文書)があり、延亨二年(1745)に江戸出塗仲間の存在があったことを確認できる。この仲間帳は前書法度と仲間商人の列記からなりすでに三九人、宝暦三、八、九、年の追加を併せると実に五十名のメンバーを数えている。ただし、前書法度の内容は前述した延宝年間の木綿仲間の法度となんら変わらず、簗田家支配下の商人仲間としての規制を受けており江戸出し仲間としての独自性はまだみられない。 ところで、延亨四年(1747)の仲間帳が同じく簗田文書中に存在し、表題無しではあるが、十五名から成る塗物屋仲間であることは確実であり、内容から田舎出塗商人仲間と思われる。延亨二年の江戸出仲間と同時期に別の仲間が存在し、しかも四名が重複している。
また、これらの二つの仲間帳から延亨四年当時の塗物屋の分布は七日町十一人を筆頭と
して二三町に及んでいることがわかる。
明和八年(一七七一)に到ると、一般的な仲間法度を以て規制される段階を脱皮して、
特有の特権の表示である仲間公認の荷印を持ち、独自の仲間寄合を持つ仲間組織となって
いる。ただし、原則として仲間加入を認め、名義売買の自由を認めるなど、後年の独占閉
鎖的な株仲間とはまだ大分異なったものであった。
江戸塗中ケ間前々より申合覚










この時点で、仲間商人は延亨時の成員が十五名までに淘汰され、新たに加わったもの五名を加えて二十名となっている。
前述の様に寛文以前の仲間は商人・商業の統制をするという目的を主なものにしたが、寛文期以降になると、それに加えて運上金を納め、その代わりに仲間商人は独占を擁護されるという、相互依存が生まれるようになってきた。それが、元禄期から見られる運上金関係である。この時期には前述したように仲間は成員数を固定した〆株にはなっていなかったし、それゆえ、この時代の仲間が全て運上金や冥加金を納めていた訳ではない。
しかし、商業の発展に伴って同業間の競争が激しくなると、自衛のため、既得権の保護と、新規参入の阻止を領主に求めるようになり、一方領主側は財政逼迫の解消を経済力をつけてきた商人たちから運上金を取ることで解決をはかろうとした。払い下げ米の必要な酒造仲間の場合などは早くも元禄十年から運上金を納めており、新規参入を認めない〆株にはやくからなっっている。塗物仲間が〆株となったのは、遅くとも天明年間以前であろうと思われる。
文化十四年(1817)の『江戸出仲ケ間帳』(簗田文書)に前文として「天明五年巳六月仲ケ間定法相極候扣」とあることによって、天明の時点で次のような「仲間定法」があったことがわかり、その内容をみると、江戸出塗仲間が完成されたといえる要件を満たしている。
天明五年巳六月仲ケ間定法相極候扣

流通体制の確立と株仲間

家老田中玄宰を中心とする天明~寛政の改革で漆器においては、漆樹栽植奨励、工人の 招聘、新技法の導入、国産主役の任命、海外輸出計画、江戸会津産物会所の設立などがは かられた。

江戸産物会所とは、天明の改革の一環として、殖産興業と交易促進のため、交易係によ る一切の国産品江戸移出の直計らいを理想として設けられたものであった。寛政五年(一 七九三)江戸御用達町人田畑源兵衞の発案で、江戸中橋横丁の平兵衞店を借り受けて設置 されたものであるが、そのための元入金の問題と急激な体制転換にともなう混乱を避ける ために、一応在来の直計らい品を中心とした国産品の捌き場所となったらしい。だが、当 時江戸出し塗物商人仲間によって塗物の江戸だしが平行して行われており、産物会所が塗 物の江戸移出と販売にどのような役割を占めていたかは明らかでない。

また、享和二年(一八〇三)年には塗物長崎貿易計画があったことが伝えられるが、成 功したか否かについてはこれも明らかでない。

延亨~天明期の「江戸塗仲ケ間」(江戸出し塗商人仲間)や「田舎出し塗商人仲間」( と思われるもの)の成立、天明・寛政の改革などを通じて漆器の流通体制は次第に整備さ れつつあった。やがて文化・文政期を迎えると、「塗物店仲間」の株究め、「大坂出塗物 株」の形成、「江戸出し塗商人仲間」の株究め、「田舎出し塗商人仲間」の株究めなどい わゆる株仲間の成立によって完成される。

文化三年(一八〇六)の 『塗物店仲間株改帳』(白木屋文書)の場合、仲間法度は前 述したような簗田氏支配下の一般的仲間法度と自分たち自身の仲間定との二部からなって いる。前者荷おいては、すでに「見世場」云々の条項は消えており、後者では、譲り株・
貸し株に関する規定や仲間出銭に関する規定を持ち、月行事による統制や商品の値段統一 を掲げて塗物販売に関する株仲間であることを一目明瞭にしている。ただし、塗物輸送に 関する規定を欠いていることから城下において販売を行ういわゆる地店仲間であることが わかるのである。当時の仲間は一七名である。

「大坂出塗商人株仲間」は文化九年(一八一二)の『大坂出塗物株帳』(簗田文書)に よってその成立の経緯がわかるが、荷判・名前貸しの禁止、自由競争・値崩しの禁止など をあげ株仲間法度の体裁をとってはいるが、商人司簗田氏の署名があり当初は一人のみの 単独株であって、市場開拓の功績に対する恩賞として上から与えられたものである。

『江戸出仲間帳』(簗田文書・文政八年)によると「江戸出し塗商人仲間」の株究めは 文化一五年であった。これによると、この株究めは江戸における既得市場の防衛と維持の ために自由加入仲間の防止策として仲間自身から発議されたものであった。仲間成員二二 名だが、内明和八年の二十人の仲間の内、この文化十五年まで残ったものは僅かに四人の みであった。

「田舎出塗商人株仲間」は文政一三年に、前述の延亨四年のが復古成立したものである ことがわかる。株譲りや荷判出荷の規定売崩し禁止により仲間の特権利益防衛を計ると共 に、旧業者も含めて株金の徴収があり、江戸大坂出しを禁止して他の仲間との競合を避け るなど会津全体としての流通体制が整備されたことをうかがわせる。仲間人数は三一人で 、関東、奥州、北国筋の東日本一円に販路をもっていた。

尚、一人の人間が複数の仲間に入っている場合もあった。また、各組は「行事」と「組 頭」を定め、例えば月並箱銭の取り立ては行事があたり、商売筋に関しての出願には組頭 の加印が必要であるなど、庶務担当者としての月替わりの行事と総括的代表者としてかな り長期に渡りその任に当たる組頭を持つ組織になっていた。

このようにして外部に閉ざされた〆株としての株仲間の制度が整い、溜銭も株仲間組織 を通じて徴収されるようになっていく。

会津塗物出入一件

全国的な流通の変化に会津側の認識が立ち遅れていたことは前述した通りであるが、そのつけが天保に入ると一気に露呈してくる。

天保二年会津藩江戸勘定所出野村右膳は、江戸産物会所が荷物の受け渡しばかりで諸産物の相場を保つなどの機能は果たしていないとして、当時の江戸市場における会津の塗物商人の実情を詳しく述べているが、その要点を整理すると次のようになる。

1 現在、江戸の取引先は問屋二十七、八件で、その他の店へは売捌けない決まりである
3 会津の商人は十四、五人が年に二度上京し、両組(一、二番組)の店々へ売り渡す。
4 他の国々では直接卸売しており、中には江戸に出店を構え一年中商売する例もある。
5  4のため、江戸における塗物商売の利潤は少なく、問屋は専ら会津産の塗物によって
利益をあげているようすである。

1~ 5のような事情から会津の塗物商人の現状は、季節的に且つ個々に商品を持ち歩き販売するため懐具合は荷物の多寡で問屋側に見透かされ無理な条件買い叩かれる。しかし、零細な商人達のことであるからやむをえず相手の言い値で売り、その上支払は為替手形で渡される。それも以前は二、三十日ものであったのが、現在では半年の延べ手形になっている。

また、会津の商人は帰り荷として呉服、小間物、等を仕入れるのでその資金繰りのため売り急ぐ者もいる。これでは値段を保つことは出来ない。その上、去年藩の骨折りで漸く六分程値上げ出来たが、秋になって難しい条件を付けたり談合をするなどの無法をした。このような問屋側の条件が通ったのでは、会津の商人たちは進退極まってしまう。

また、思いがけず現金買取りの場合も、厳しく値切り、そのうえ番頭や手代が寄り集まって接待を強制するので、費用が少なからず懸かって、迷惑この上ない。資本力のあるものは資金繰りの方策もあるが、不渡りを出し取引停止にされて大変難渋するものもいる。

このようなわけで結局は地元の職人に皺寄せが行く。商人が職人から塗物を買い上げるのが遅れたり値段を抑えにかかったりするので、職人は行き詰まり自然と手抜きするようになる。中には離散して他所へ移って仕事をするものもいる。新潟で板物など盛んに作られたり、仙台まで産地が広がっている。これ以上他に産地が広がったら会津の漆器業の妨げになる。

それ故に右膳は、江戸取引の根本的な改革が必要であるとして、改革案を提示している。つまり、現金買い上げ以外の商品は悪条件で問屋に引き取って貰うよりも、会所が買い上げ、しかるのち、需要と相場を見合って、会所が問屋宛に商品を捌く、その代金も会所が取り立てる・・という方法を提案している。

そのための方策として

1 国元に大問屋を建て、厳重に品質管理をして、妥当な値段を取り決める。
2 荷物が江戸に着き次第、値段の決まった商品は早速代金を立て替えて支払ってやる。
3 値段が決まらず、相場眺めになる商品については、(予想値段の)七割程度を立て替
払いにして、商品が捌け次第精算することとする。

江戸会所による、一種の専売制に近いものが意図されていたといえよう。だが、検断、 町役所から、このような専売類似法はこれまでも試みられたが長続きせず、法令規則 の朝令暮改に商人が拒否反応を示しており、また、田舎出商人による江戸への抜荷  の恐れがあり、売掛の焦げつき等で資金繰りに詰まる可能性もある等々の反対が出  て、引き替え貸し金についてはその実施を検討するというだけの成果しか得られなかった。

ここにみたように、天保頃の塗物取引に関する問題は、

1) 価格交渉における江戸問屋側の一方的優位
2) 残り荷処分については入札という形式を取ってはいるが、実は談合で下値に落札さ  れる。
3) 延べ為替決済による支払いのため会津商人の資金繰り難。

さらにもう一点ここにはあからさまに触れられてはいないが損害保証という名目の、事実上税(運上金)の納入業者への転嫁である積金徴収がなされており、これは幕府により禁止されていたものであるにも係わらず、産地問屋に強制されていたという問題がある。

この不満が雛道具というリスクの高い商品を巡って一気に吹き出したのが天保三年の「会津塗物出入り一件」である。更に天元年当時の二番組行事でありかつストライキ中の抜荷を企てて、双方からの指弾を受けた会津屋徳兵衞の件が絡まって、事態は拗れ訴訟になったのである。

江戸二番組問屋仲間から次の二点を理由として会津側を相手とする訴訟が起こされた。

1  会津の商人が天保3年分の雛道具類の注文を承知しながら、暫時引受量を減らし 、ついには辰年分の雛道具の江戸移出を中止したことで、江戸問屋側は営業上多大な迷惑を被った。
2  雛道具の一件及びこれに到る価格交渉過程における江戸問屋会津屋徳兵衞の言 動を不快としてか、会津側から取引停止を通告してきたことは得意先に対して不実なやり方である 。

会津側の要求案

1 積金につては、中止または過徴分の返還を要求。
2 残り荷について--会所捌き・田舎捌き・その他何れの方式によってでも残り荷の相
對売りを認める。その為には、積金の支払いを呑んでもよい。
3 会津屋については、詫び状を一札とる。
4 雛道具荷送りについては、旧規定通りであれば再開する。

天保三年七月一日に提訴され九回の召喚を経て、九月八日に両者の示談が成立し証文を取り交わした。妥結の要点は次の三点である。

1 会津屋徳兵衞には心得違いの点が在ったので江戸仲間に詫び、会津の御領主様の  方へも、仲介者(一番組行事)から充分お詫び申し上げるので、今まで通り徳兵衞方  とも取引を行うこと。
2 雛道具については、今まで荷主側から差し出していた五分の「出銀」をやめて、先年 の規定どおりに取引を行うこと。
3 一般商品の取引について従来荷主より差し出されていた「直下ケ銀(値下げ金)」と 呼ばれる一分の出銀については、会津側では「積金」あると言い、江戸側では抜荷検 査費用であると主張して、双方共証拠が無いので、特別の措置として五厘差し出すよ うにすること。

このようにして、一応会津側の言い分が通ったものの、違法性のある積金を出しても、 会津側の最大目標であった直売権を獲得することは叶わなかった。かえって、奉行所がわですら十組問屋仲間にたいしては、ある程度の黙認と言う形を示したのであった。

天保末期に一時廃止されたものの、幕末まで株仲間は商業機構の中核をなし、維新後の組合制度にもその影響を色濃く残していくのである。

寛政から

寛政二年(一七九〇)の『御用日記』(簗田文書)に、塗師組頭が木地卸を扱っていたが、これを取り止め、以後七日町中条市兵衞宅を卸場として、必ずこの問屋場を経由して木地の売買は行うよう塗師職人共へ申しわたすという記事があり、同じく寛政八年には、職人共に限り他所で商賣してはいけない、必ず問屋に差し出すように、という命令が出ている。どちらも生産者が直接製品を売買することを禁じたもので、製品が必ず問屋を経由することによって、問屋を通じた生産者の支配がとられ始めたことを示している。