会津の漆器業 4

輸出漆器

日本人にとっては当たり前すぎて時として平凡なものに感じられる漆の黒色であるが、西洋においては良質の黒色塗料が得られなかったため日本の漆器が珍重され、安土桃山以降重要な輸出品目なった。

会津漆器の海外輸出は四つの時期に分けることができる。

その初めは田中玄宰が藩の財政を立て直そうとした寛政の改革期に遡ることができる。長崎からオランダや中国へ輸出しようと試みたことが『家世実記』享和二年の項に記載されている。良質の医薬品を仕入れるために長崎貿易に参入しようとしたもので、会津漆器は下地が堅牢な割には値段が割安であるとして売込みを図っている。外国向けを意識した煙草入れなどを見本品として出しているが、どの程度成功を収めたかは定かではない。利潤が出るほどの規模には発展しなかったと見るのが妥当であろう。

次は幕末開国の次期である。外国船が寄港するようになると、西洋人のエキゾチズムを満足させるようなみやげ物が求められるようになった。大正大震災に至るまで輸出漆器のほぼ七割は横浜経由であったが、静岡、紀州黒江などと共に会津は輸出漆器の先進的産地となった。明治中期まで輸出は堅調な伸びを示すがその後は暫時減少傾向にいたる。そのなかで家具調度を主産品として官民合わせて積極的に取り組んだ静岡漆器などや、廉価な食器類に徹したに黒江に比して会津を含めて東北の漆器は時流に流されるまま苦戦していたことが大正五年ごろの新聞記事から推察される。

第一次大戦を境として、主要輸出相手先は仏、独、英を中心とする欧州から米国へと転換する。その中で会津の輸出漆器が再び盛隆を迎えた。太平洋戦争直前までの一時期全生産額の8~9%を輸出が占めた。消金地に漆絵、平極色粉蒔絵などの華やかな装飾性が相手方の嗜好に合ったと考えられる。商品は、宝石箱、装身具入れ、フィンガーボール、コーヒーセット、カップ類など多様なものが作られている。図柄は八種類ほどの植物文様にパターン化していたようである。

当時の会津輸出物は国内向けに比して、かえって高品質で合ったと言われる。特筆すべき作例としては、「鳩に唐草文ゴム版蒔絵調度品」がある。昭和三年にイタリアサヴォイア王家からの特注品を受注したもので、ゴム判蒔絵の頂点を極めるものであった。残念ながら用途は不明であるが、ウンベルト二世とベルギーの王女マリア・ジョゼの結婚の引き出物と言われている。文様は二人のイニシャルを王家の紋章サヴォイアノット(菊綴結び)風にデザインしたもので、周りを精緻な唐草が囲んでいる。

最後は第二次大戦後、進駐軍を含めた米国を相手先とする輸出の時期である。この時代「テンダラーギフト」という言葉に象徴されるように、相手方にとって手ごろな値段で(現在の感覚でおよそ一万円程度か)豪華さのある商品として需要を伸ばした時代である。戦後のわずかな期間ではあったが二瓶初太郎の「マルニ工芸漆器製作所」の仕事はエポックメーキングであった。アルマイトを素地とすることで加工性が良く、海外での木地割れや狂いのない金胎漆器を生産した。華やかな玉虫塗などを多用し、電気スタンドなどの新しいアイテムを開発した。また津田得民氏のデザイン力で伝統的な図柄を洋風の器物に巧みにアレンジしたのも成功の要因であった。残念ながら為替の二重レートの廃止などで経営に打撃をこうむり廃業した。

その後、昭和三十年代半ばにラッセルライト計画など通産省日用品科の指導による輸出振興の努力もあったが、高度経済成長に伴う価格の上昇と、変動相場制への移行により輸出量は微々たるものになっていった。