きざえもん昔話

故高瀬喜左衛門の少々へそ曲がりのエッセイです。

 
花春の枝垂桜

その2 ちいさなサイクル

七十年ほど昔の話である。第二小学校とは今の城北小学校の事だが、ここでは漆器関係の子弟が多かった。そして漆臭いなどとからかわれたものである。

会津では昔、目止めのための下地に豆柿の渋を使っていた。漆との密着性は良いのだが、木地が痩せて木目が見えるので、今は使っていない。そんな訳で、塗師さんの家の入り口には,潰した豆柿を入れた桶が何本かあって、その臭いは漆と似たところがあった。着物にまで染み付いていたのは、実は渋の臭いであって、漆の臭いではなかったと思う。

渋は漆器の下地のほかに、色々なものに利用された。例えば反古紙を貼り重ねた炬燵敷、和紙で作った帳面の表紙、渋団扇、漁業用の網、物を入れる寵に貼った紙の上など、これを丈夫にするため、耐水のために渋を塗ったものである。日本で用いられた塗料が、西洋式のニスなどのように、溶剤が蒸発して塗膜を残す方式ではなく、桐油の酸化だとか、渋や漆の如く縮合によるものであったのは面白い。

漆器の木地痩せを防ぐ方法として,輪島で下地に地の粉を使うように、地炭というものを使った事がある。柳の炭を粉末にしたもので、猪苗代の樋ノロから橋の袂を酸川の支流を東に入った小田の集落で作っていたと聞いた。

漆下地の砥の粉に該当するものは松煙(まつぼこり)である0これは轡盛山の南に入つた「二つ入り」という辺りで,紙張(紙の蚊帳)のなかで松の根を燻して煤を集めたものだと聞いた。これらは聞いた話で、自分の目でみたものではない。

ロクロで挽く木地の材料には地元で取れるブナや栃が使われた。重箱やお膳などのように板から作る木地にはホウの木が使われ、仕上げは丁寧だった。渋地は薄いので、木地の良し慈しが表に出るからである。

漆器店などと気の利いた名前が使われる以前には、「塗り物屋」だとか「御わん屋」などと呼ばれるのが普通であったように、椀類と膳類それに重箱などが主たる扱い商品であつた。お椀を発送するには、一個々々のお椀がガタつかないように、紙袋の外側から藁のシベで、焼肉の凧糸のように順繰りに括り、その外に「いら綿」といったか「えら綿」と言ったかしたパッキング材で保護した。「いら綿」とは、木綿などの古布を綿に還元する目的で打ち返し加工したもので、薄墨色の綿みたいなものに布の形を残した部分などが混じっている粗製なものであった。

そしてお仕舞いの荷姿としては、この細長いお椀の包みを何本か竹のスゴで丸ける。竹の弾性が役に立つ訳で、多分、馬の背で輸送した時代の名残だろう。この竹スゴは湖南の湊町の静潟のあたりで作られ、村の人は他の品物と一緒に若松に運び、塗り物屋の店先に卸していったものである。

物を作る事は極めて小さな、狭い地域のサイクルのなかで行われていた時代の話であっ て、それが良かったとか悪かったとか言っているのではない。手も足も届く範囲の仕事で、自分のやっていることが何だか分からないなどということは無かった。

(平成12年1月)

竹田綜合病院 「ふれあい」№39に掲載