恵倫寺の桜

きざえもん昔話

その3 仲良くすることと仲直りと

お断り: 平成10年に「会高剣舞会報」に載せていただいた文ですが、その後多くの反響があり、2,3転載していただいた機関紙などもございます。 ここでは、表題を原稿通りに戻しております。

 八月十九日の会高剣舞会の現役激励会でお話したことは、時間の制約もあって不充分だったと思われるので補足しておきたい。

ズバリ言えば会津と長州・薩摩との関係のことだけれども、最近マスコミなどの間で無闇に仲直りさせたがる空気が高まり、また行政がそれに乗せられやすいようにみえる。悪い事ではないが注意して扱うべき問題である。以下はつたない私見ではあるが、思いつきではない。年月をかけて考え抜いたつもりである。率直なご批判を頂きたい。

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まず第一に「仲良くすること」と「仲直り」は似ているが同じではないことを指摘しておきたい。

「仲直り」とは、喧嘩を止めて仲良くなるだけでなく「悪かったネ。御免なさい。」という意が含まれているように思われる。各々が思うところがあって行動した歴史的に厳粛な事実の土台を、百三十年たって、世代がかわったからとして簡単に撤回できるものだろうか。つもる思いを恩讐の彼方に流し去ることは賛成である。しかし、お互いに原理、原則を気安く撤回して謝ることなど出来るものではない。まして特殊な社会における喧嘩出入りの手打ち式ではあるまいし、人前で派手に演技することではない。

私は歴史家ではないので、歴史的な事実を細かに詮索することは避ける。そして、感情的になることのないように、相手のことはなるべく善意で解釈することにする。

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全てを水に流すまえに、先ず会津の側にある恨みつらみを考えてみよう。会津の住民すべての意思でこの戊辰の会津戦争が戦われたわけではない。一般の庶民はこれを「武士同志の戦い」と見ていた。一般庶民にとっては迷惑な出来事であったのは確かである。勿論、例外はある。例えば民兵として「会の字に赤い日の丸」 の識別票を上膊に付けて参戦した人のあった事は知られているけれども、「戦争とは総力戦である」との意識はなかったし、数も長州の奇兵隊のように多くはなかった。

当時の会津の庶民は、戦争に到った事情なぞ知るべくもないままに、「肥後守さまがこんな戦いをお始めにならなければ我々は塗炭の苦しみをしなくて済んだものを」と愚痴をのべている。いわんや今時の人間が「あんな戦争をやって、会津人は馬鹿だ。」などと早やとちりするのにも無理からぬところはある。

しかし、関わりの無いはずの一般庶民まで含めて会津人が「長州憎し」と凝り固まったのは、戦争に付き物の悪行の他に東軍の戦死者の遺体の始末を許されず、無残な姿のまま、腐敗し、野獣のいたずらするにまかせたことである。

これを解決するために、町野主水、伴百悦等が長命寺、阿摘陀寺に埋葬するのに骨を折ったことは忘れてならない。

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それでは「長州憎し」だけであったかと言えば、それは違う。「長州有り難う」の部分もあったのである。例えば、秋月胤永は会津が開城降服した後、ほかの藩士とともに猪苗代に蟄居していたが、藩の参謀・小出鐵之助や真龍寺の僧・河井善順とともに密かに越後に赴き、そこに駐留していた、干城軍参謀、奥平謙輔を通じて前原一誠、大村益次郎などに会津藩に対する充分な配慮を依頼したりした。(「行くに輿なく、帰るに家なし」の詩はこの時のもの)。またその後に、年令不足のゆえに白虎隊に参加できなかった、山川健次郎や小川亮の勉学の便宜を再び奥平謙輔に依頼するなど、親身のお世話になったことも沢山あったのである。

戦死者の遺体を放置せしめる訳の分からぬ武士もいれば、立場は異なっても互いに理解するべきところを理解し合えた教養ある武士もあったと見るべきである。

別な話題もある。昌平費に学び、斗南時代に小参事を努めた永岡久茂(この人も「一木、大廈の傾くを支え難く」の絶句をつくつている)は新政府から官途につくことを薦められたのを断り、明治九年のことであるが、逆に新政府に対して同じ不満を懐く長州の前原一誠たちと図って「萩の乱」に呼応しようとし、日本橋小網町の思案橋を出発するところを官権に捕えられ、そのときの傷がもとでやがて獄死した例がある。このように嘗ての敵味方とはいえ、心情に共通するものもあったと見るべきであろう。

このような事情から思うのだが、敵味方であっても武士同士の持つ親近感、お互いに縁組の多かった藩主同士が懐く親近感と、同じ藩内でも階級の異なる者との親近感とどちらが強かったものなのだろうか。この親近感はカルチャーの共通性に由来しているので、階級意識とは異なると見ているが、残念ながら今は検討している暇がない。

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こんどは長州の側から考えてみよう。戦国時代に中国地方の大部分を征服した毛利藩が、関が原合戦の結果、山口県の長門、周防二国の小天地に逼塞させられたことが二百六十数年に亘る憤懣事であることは推測に難くない。従って「徳川幕府憎し」がまずあって、その幕府を困らせる手段としての〈攘夷〉であった。

地理的に日本の西に位置することや外国との交易などから、薩摩と同じように中国に対する英国の侵略などをよく観察して我が国内を顧みるとき、数名の普代大名により構成される幕府老中の合議制行政の決断の鈍さなどを経験するにつけ、幕府の制度疲労もここに到れるか、と危惧・焦燥の念を懐くに至るのは当然至極のことである。

長州と薩摩、二国の相異する点は、長州が朝廷の一部の急進派と共に〈倒幕〉を考えたのに対し、薩摩は〈尊皇〉の点では同じでも〈公武合体〉を目論でいたのであって、最初は倒幕までの考えはなかったことである。

会津藩は勿論〈公武合体〉である。途中まで会津藩と同一歩調だった薩摩は後に坂本龍馬の斡旋などで長州と一体化するが、そのときは〈公武合体〉は通り越して、幕府は直接の政治からは手を引いてもらうと言う〈倒幕〉にまで踏み込んでいる。好意的に解釈すれば、大方の藩は〈実効ある政治〉と外国の侮りを受けぬ〈富国強兵〉を望んでいたものであろう。しかし、建前はあくまでも〈尊皇攘夷〉で通したのである。

このような薩長の接近には、坂本龍馬の斡旋の他にも原因があったかもしれないが、ここでは深入りしない。かくして薩摩と長州はともに倒幕の立場をとることになった。さすれば佐幕の会津とは立場が基本的に分かれる。これを只今現在の時点から見直して、薩長側が「自分達の先祖の倒幕の考えは間違いでした。御免なさい。」などと会津に謝れる筈はないのである。

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私は〈明治維新〉とは鎌倉以来六百年以上武家が持っていた権力が移動したのだから革命であると考えている。しかも、急進公卿の一部と薩長藩士の一部による〈革命〉であったと考えると、維新史はスッキリ解釈できる。

孝明天皇や徳川家茂は純粋に公武合体論を信じておられたと見る。天皇から容保にたまわった辰翰は決して朝廷流の外交辞令ではあるまい。私は家茂や孝明天皇お二人の死因が何であったかなどには関心がない。それが分かったからといって、歴史が逆に廻るものではないのだから。

革命の常として、当初から〈仕上がり図〉があった訳ではない。最後には武士階級も消えてしまうとまでは想像してもいない。第一着手の〈倒幕〉があっただけである。

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長州のこのころの専横の反動としての文久三年八月十八日の〈七卿落ち〉、それに続く〈蛤御門の変〉そして〈第一長州征伐〉の頃から、慶喜の考えと幕府の考えとの食い違いの溝は深くなり、慶喜の意欲は急激に萎んだように見受けられる。この点で〈京都守護職始末〉の著者・山川浩の慶喜を見る筆致はかなり厳しい。会津は長州その他の憎しみを一人で背負って悪者になってしまったのである。

話はそれるが、会津はあれほど京都の治安の維持に努力し、新選組を使つて京都を大火から守ったし、孝明天皇の御信任も厚かったのだから、今でも京都では評判がよいだろう、などと自惚れて考えていると大間違いである。勤皇の志士をいじめた会津。無頼の新選組を使った会津。花柳界で遊んでも、薩長に比べて野暮ったい会津。そもそも初めて京都に進駐したとき、誰も〈カイツ藩〉などというものは知らなかったよ、という有り様である。

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慶喜が必ずしも〈徳川宗家大事〉の一辺倒でなく、様々な考え、つまり様々な選択肢の間を揺れ動いたことは理解できる。これは彼が水戸家の生まれである事と無関係ではない。光園が大日本史の編纂に着手した目的の一つが〈皇統〉を正閏する(正統なものとそうでないものを区別する)ことに在ったように、慶喜にとっては、そもそもは幕府が朝廷から委任を受けていた征夷大将軍の権力は、朝敵の汚名を受けてまで固執しなければならぬものではなかったのかも知れない。光圀自身が兄・頼重の子・網方の弟・綱条(つなえだ)に家督を譲ったことも、禅譲の前例として慶喜に影響した可能性がある。この辺のことは最後にもう一度ふれよう。

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第一次長州征伐は「不発に終わった」と言ってもよいほどモヤモヤ曖昧のうちに終結した。実は西郷隆盛が斡旋に入って、長州の三家老と四参謀の切腹で落着とさせようとしたのであるが、西郷はできれば毛利藩を東北の辺地に国替えすることまで考えていた節がある。

これは長州に恩を売っておいて同時に幕府の権威も貶めると言う、一石二鳥の策である。彼は周囲に漂わす茫洋たる気分と裏腹に、権謀術数に長けた策士の一面も持っていたらしい。この処置は会津戦争の処置の伏線にもなっている。

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このあと、会津の立場を一層悪くする第二次長州征伐、将軍・家茂の死、慶喜の将軍就任、孝明天皇の崩御、山内容堂に勧められての慶喜の〈大政奉還〉の宣言と、実はきわどくその直前に薩長に倒幕の密勅が下されていたと言うペテン。追い討ちをかけるような〈王制復古〉の大号令。〈鳥羽伏見の戦い〉。と目まぐるしく続く。

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それでは次ぎに、これらの経過の中で会津藩が会津戦争を避ける方法がなかったのかと言う問題だが、〈鳥羽伏見〉の開戦時には、薩長など急進派は、手回しよくも、戦後処理として会津の(1)〈開城〉と(2)〈領地没収〉を決めているのである。第二次大戦の〈ポツダム宣言〉と異ならない。

この後で会津藩は輪王寺宮に謝罪嘆願をしたり、田中土佐の名前で尾張、肥前を通じて嘆願書を出したり、広沢富次郎(=安任)に命じ勝海舟を通じて西郷隆盛に和平の交渉をさせて逆に逮捕されたり、色々な和平の努力をしたが全て無駄であった。

尤も、和平の折衝の裏で万一の戦争の準備をしていなかったか、と言えば正にその通りであるけれども、我々はこの場合、二段構えの準備を怠るほどウブでなかった事は許されて良かろう。そして最後には慶応四年閏四月、東北諸藩の名前で九条総督に降伏嘆願書を提出して拒否されている。

思えば、和平の希望など通用しないのは当たり前である。先に 「明治維新は革命であった。」と述べた。革命はその成果を明瞭な形で天下に示す必要がある。政権を握っていた者をギロチンに掛けるのが一番分かり易い表現だろうけれども、それに該当する元将軍・慶喜を無血開城と引換に「万事お構いなし」にしたとすれば、憎んでも余りある「会津」を身代わりの血祭りにすることが論理的帰結になる。

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さて、〈恭順の意〉を表したり〈陳謝〉したりするのでなく、最初から敵対関係を作らないで会津戦争を避ける方法はなかったかと言えば、あることはあるが、現実的でない。

その一つは容保が文久二年、京都守護職を無理やり押しっけられ、西郷頼母と田中土佐の二家老が早馬で江戸に駆けつけ、守護職の辞退を諌言したとき、その忠告に従うのが一つの選択であったろう。しかし、藩阻・保科正之の定めた家訓(かきん) 「第一条 大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら虞(お)るべからず。若し二心を懐かば、即ち我が子孫に非ず。面々決して従うべからず。」 まで持ち出されては、他藩から養子に来た容保には如何とも抗し難くなってしまう。

ここで考える事が二つある。その一つは正之が家訓の第一条を定めた心情である。これは御三家にも御三卿にもない、徳川宗家に対する純粋無垢の忠誠心の発露であるが、必ずしも彼の心酔した朱子学の影響ではないと見る。

全くの私見だが、家光の命で幕政に参画して、文治の体制を作り上げた正之は「幕府は自分がつくつたもの」との自負というか、思い入れというか、感情移入というか、正に幕府と自分をアイデンティファイするものがあったのではないか。それに加えて会津藩には後々まで「武勲によらずして、縁故で大名になった。」という引け目が付き纏ったように思われる。文化五年に第一回目の蝦夷出兵をしているが、これを受諾したのもこの負い目からだったとする説がある。

もう一つ指摘して置きたいことがる。頼母は文久三年、容保に再度、守護職を辞するように進言している。結果として彼は不興を蒙むり、家老職を免じられているが、それはど熱心に会津藩の将来を心配したのは何故だろうか。そもそも血液の濃さからいうと、松平家よりも正之よりも、西郷家の方が高遠の保科家に近かったことから、頼母は高遠藩の後継としての会津藩のことは、他の人には任せられないという自意識が強かったのではないか。

もう一つの、会津藩のとるべき態度の選択肢は、守護職の勤めを幕府にも密着せず、慶喜とも密着せずやって行くことだが、そんなチャランポランは会津人向きでない。

最後の一つの道は、西郷隆盛に負けぬ権謀術数を用いることだが、これも会津に似つかわしいことではない。

つまり、会津の〈自己否定〉以外に道はないことになる。これはできる筈がない。

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それでは、江戸に逃げるようにして帰って来た慶喜に、戦う気持ちが皆無だったとも思われないが、江戸城無血開城をした経過はどんなものだったのか。勝海舟がこれは慶喜の命を救う目的もあったろうが、それにもまして第三国の介入を恐れて〈開城〉を勧めたからだと思われる。

これは正しい判断であったし、慶喜にそれを聞く耳があったのも重要なポイントだった。さもなくば戦乱は江戸だけに止まらず、全国的なものに発展し、外国の介入、すなわち我が国の植民地化を招くこと必定だったろう。

慶喜にはまだ他の条件が備わっていたと思う。彼は外国の事情にも通じ、フランス革命についても充分な知識があったと思ってよい。そして「歴史の歯車を逆廻しにすべきでない。」という哲学をもっていたかも知れない。そうでなければあのように、全面謹慎、発言皆無、を守り通すことは難しい。

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それにしても、鳥羽伏見の戦いの締め括りは他にしようがあったのではないか。彼は松平容保を無理やり連れて、軍艦で江戸に帰ってしまった結果、会津藩に対する鳥羽伏見の戦いの責任を負って、神保修理は切腹を命じられた。そのうえ慶喜は容保が会津に帰るに先立って面会を求めたのに、応じようともしなかったのである。

慶喜は水戸に謹慎し、静岡に隠棲してからも、家臣にも会わず、好き勝手な趣味の世界に遊んでいた。「貴人情を知らず」の言葉通りだったのか。自分よりも身分の下の者は「使い捨て」にして恥じなかったのか。

勝海舟の場合は、長州征伐のころから、幕府そのものを見限り「使い捨て」にしていたようにさえみえる。

人の上に立つには「敢えて私情を断つ」という意味で「使い捨て」の冷たさを持ち合わせる事も必要なことは知っているつもりであるが、正直言って会津人の私には徳川慶喜と勝海舟、それにセッチン攻めにして守護職に引張りだした、福井の松平慶永(春嶽)の三人には好感をもてない。

自分の利益の為ではない「使い捨て」ならば、「使い捨て」もまた我慢するしかないものか。

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江戸城を明け渡して、第三国の干渉を避けたのは賢明であった。しかし〈公武合体〉の行き方の一つ、〈元将軍を議長とする諸侯会議〉まで捨てなければいけなかったか。これの実現の可能性は残る。しかし〈貴族院〉的な性格を脱しきれず、最終的には廃止されるか、または二段革命を誘発しかねないものである。

それでは、幕府を除いて、地方の諸藩だけで、連邦国家をつくることはできなかったか。これも可能性はある。しかし、革命の大きな目的であった〈富国強兵〉を実現するには〈中央集権的〉手法の方が手取り早い。また、幕藩体制の中でも、絶対君主制とは違う手法で結構〈中央集権〉は行われていた、と私は見ている。

私がお預かりした地方自治の経験からすると、我が国の地方自治体が〈住民自治〉ではなく、〈団体自治〉に馴染み易い体質を持っているのは、町村制が出来てからのものでなく、もっと古く且つ根深く、幕藩時代まで遡る類のものではないか、と密かに感じていた。

結局、若干の不満をもちながらも、慶喜のとった道は「日本の国のために良かったのだ。」という判断を結論とせざるをえない。しかも、今の時点で改めて点検して見ると、徳川宗家の御当主が容保公の曾孫に当たるのをはじめ、徳川の家系のポイントは、一番ひどい目にあわされた会津松平の子孫が占めておいでになるとは、〈天〉も皮肉をご存じであられるらしい。

結論として最初の話にもどるが、会津には会津の、薩長には薩長の一分があるのである。お互いに一分を大事にしながら、縁組みだって構わない、だまって仲良くすれば良いので、何も舞台の上で握手して見せるまではいらないことである。

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最後まで控えていた感情を一つ。私はやはり「使い捨て」に拘泥する。どちらかと言えば、政府軍に負けることを知りながらも若い不満士族と行動、運命を共にして、彼らを「使い捨て」にはしなかった西郷隆盛の「敬天愛人」の方に引かれるものである。 

(平成十年九月三十日)

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