善龍寺の桜

きざえもん昔話

その4 会 津 魂 と 戊 辰 戦 争

座談会形式で作られた本ですが、 特別寄稿ということで、テーマに回答する形式で書いております。

「ならぬものはならぬ」(平成15年2月 財界ふくしま発刊)所収

 1) なぜ、会津藩は朝敵の汚名を着せられたのか?

私の友人の意見だが、会津藩は上下一致団結して孝明天皇の路線である、公武合体の方向で努力してきたが、天皇の余りにも急な崩御を廻って長洲が主導権を握り、会津が蚊帳の外に追出されたのか賊軍の汚名を蒙った原因であろう。

次ぎは個人的な見方だが、実はこの裏には岩倉具視の陰謀が隠れていたのではないか。つまり、皇女和宮の御降嫁まであれほど努力した彼が、長州の路線に変わったのである。私は、彼は倒幕の路線を走ったばかりでなく、王制復古の実現を超えて、それを天皇親政により近づける働きをしたと思う。そのことは、更にその後の「天皇の統帥権」の問題の引き金にも触ってしまったように見える。倒幕の声があがり、会津が賊軍呼ばわりされた原因は彼にあるように思われる。

徳川慶喜が政権を唯々諾々と手放した裏には水戸藩の正潤論が伝統的に存在するように思われる。幕府から朝廷への政権の移動を革命と見るならば、将軍を議長とし列藩諸侯を議員に据える「列藩議会」などを設けるよりは、将来は何れ廃止されるであろう二重構造による二段革命の無駄を廃するだけでなく「追いつき追い越せ」の富国強兵目標を手早く達成できるかなと思ってのことであったろう。しかし、歴史に「若しも」はないと言われるその「若しも」になるのだが、慶喜が政権に未練を持って時間稼ぎをした方が,天皇親政も緩和されただろうし、中央集権ではない地方分権の道州制などに導く便になったものかな、等と想ったりするのである。

私は長洲を許せないなどと思った事は一度もない。たとえ死体の埋葬不許可だって許すことにしよう。『恕してこれを行う』と言うではないか。

逆に私は、長洲側が「明治維新の際、倒幕を唱えたのは誤りでした。」と言って謝ることが出来るかを問いたい。若しそれが出来ないのなら、「倒幕は岩倉具視の発想で、長洲の主張ではありません。」と言い逃れ切れるのか? 会津の許せない不満は「長洲の我が侭」、御宸翰に言う所の「暴論を疎(つら)ねし」輩である長洲が賊と呼ばれずに、逆に会津が賊と呼ばれるような事があって良いものか! と云うことに尽きる。文久二年から真面目に京都の治安を維持し池田屋の変から、それに続く火付けによる大火を未然に救った会津としては、この点だけはどうしても納得できない。

そして、この事が、白虎隊の自刃を「あたら前途有為の少年を死なせてしまって」から「良くぞ我々の気持を天下に知らせてくれて」と言う称賛の気持に変えて行ったのでないか。

2)会津士魂とは?

よく会津士魂と呼ばれるが士魂というからには士族のものであって、平民のものとは別なものなのだろうか。確かに戊辰戦争の受け取り方は、士族と平民では全く違っていたかもしれない。あらかたの一般住民は「肥後守さまは遣らずもがなの戦をお始めになって」という、怨嗟に近い気持だったかも知れない。たとえ、戊辰戦役の会津軍には、農民による正奇隊、農商民の敢死隊などとして農民、民間の士分以外の階級が若干混じっていたにせよである。

土佐の板垣退助は「会津の領民は戦争に協力的でなかった」と言っている。これにたいする答えは二つあって、その一つは「戊辰戦争の受取り方が士分と平民両者の間で違っていたのだから、板垣のいうのは尤もだ。」であり、もう一つは 「会津の領民が戦争に非協力的であったとしても、それは徳川時代の規範から見て『お侍様のなさることに手出し口出しをしない』という至極もっともな行動であったのである。」という意見であろう。

薩摩は徳川幕府によって領地を狭められたので、侍の数を維持するためには、郷士の如き中間階層たる制度を設けなければならず、土佐藩の場合は山内以前の長曽我部の残党が野党として山内氏に強く要求して、下士の如きの存在になっていた。彼ら、民間と士分との中間層は徐々に流動化し、幕末にいたっては身分分化が曖昧化しつつあったのではないか? そのために『領民こぞって』という気分を醸成しやすかったのである。この点で、薩摩、土佐は幕藩の例外的存在であった。

百歩譲って板垣の言ったことが正しかったことにしよう。それはそれとして、士族と平民との行動様式の共通点が一つだけある。それは喧嘩をしたとき負けてはならぬことである。士族なら無論そのときは勘当されるか、キツい仕置が課せられる。商家の場合でも、その晩は家に入れて貰えぬくらのことはあった。                                 

ここに面白い逸話がある。幕末のころと聞いているが、ある商家の子供が近所の侍の子供と遊んでいるうちに喧嘩になった。相手は刀を抜いたのでどうにも仕様がない。留める人もいないので、素手と刀の喧嘩になってしまった。攻めて来る相手の刀を右の素手で掴んだら、指がもげてしまった。「これはまずい。」と左手でとれた指を元の場所に押し付けた。二、三日経ったらなんとかくっついたが、指の向きが逆なので後々苦労したと言う。医学的な是非は知らないが、時代を表した面白い話だと思う。

つまりは、士族の内だけではなく藩全体の気風として共通の部分もあったということである。

〇〇魂 と云うのは確かに有る。しかし、それは相対的である。従って会津魂があれば、ヤンキー魂もある。神風は日本にしか吹かぬわけではない。まして編制されて一年にも足りない白虎隊に基本的な魂などと言われても戸惑うばかりである。

これに関して、白虎隊が軍国主義に利用される、と心配する人がいるがせいぜい戦陣訓などで「生きて虜囚の辱めを受けず」の例として用いられる程度であろう。

3) 日新館童子訓にみる道徳とは?

多分、容頌公が編まれた読本『日新館童子訓』ではなく、日新館の「入学心得」か、遊びの什の「ならぬことならぬものです」を指しておられるものと思うが、「入学心得」なら、抽象的でなく具体的な教えである点は立派です。

我々が学生の頃、休みの前には、学生の本分に恥じぬ行動をとるように、などの注意を受けたが、具体的な中身は何も含まれていなかったので、先生は何も考えずにものを言っているな、と腹の中で笑ったものである。それに比べて昔のほうがはるかに立派である。

「什の教え」も現在では大切だが、わたくしは教えられた記憶がない。商家だから、東照宮遺訓を暗記させられた。

現代版としては、教育委員会で考えておられるものに異論は無い。ただ、大切なことを口に出して唱えることには、抵抗がある。汝の神の名を口にすべからず、というではないか。

4)現代の会津人として

始めからここまでの話は、だいたい慶応から明治の初期までの時代に生きた普通の商人の目に映った、事件の感想と言ったところであろうか。

今度は現代の目で見てみよう。観光との関係も無視できない世の中になってしまった。私は芸者さんの白虎隊や娘子軍の手踊りをどうこう言う積りは毛頭ない。ただ、そんなつもりで自刃したのではない事をご理解ならば、年に一度の墓前参拝くらいしても良いではないか。

それにしても、二本松の少年隊はもう一度評価しなおされるべきだろう。白虎隊も本来は、戦闘で戦死すべきであった。そうすると、東に有る三十一人の墓や西に造られた新しい記念碑の意味も良く解るし、当時の人々が賊軍の汚名を晴らす縁(よすが)となった白虎隊の自刃の評価も良く解るのである。

司馬遼太郎先生は、全国各地についてお書きになったが、どの土地も悪く言われたことはない。先生を会津大学の記念講演にお招きした待ち時間の間、面白いことをおっしゃった。「二十三万石という会津のような大藩で、港を一つも持たなかったのは珍しいね」と。京都守護職時代の会津藩の努力活躍にかかわらず、会津藩が薩長に一歩遅れをとった原因について、考えているところを暗示されたのかもしれない。

最後に長州との和解の問題だが、長州がいかに物分りが良いからと言って、「戊辰の改革の原動力になったのは誤りでした。」とは、とても言えまい。といって、岩倉具視のせいにして逃げる訳にもゆくまい。とすれば、残る和解の道は只一つ。長州側が「錦の御旗を私(わたくし)したのは、自分たちに自信が無かったからで、そうでもしなければ勝てなかったからです。このことは、今更どうなるものでもありません。歴史の事実として、今後の戒めということでご了解頂けぬか。」と言ったら、それを謝罪の意と解して許すことであろう。                                

最後の感想

全体として、敗者意識というか、被害者意識はもう止めよう。そして 加害者にならぬよう気をつけながら前向きに積極的に歩きたい。

 

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