攬勝亭の敷地は、地形などから中世土豪館跡と考えられています。
白髭洪水(1536年)の後一面柳原となっていた一帯を、1543年に蘆名氏が三条長尾氏(上杉家一族)に与え、それ以来幕末まで長尾氏が居住しました。
攬勝亭には中世以来の庭があり、会津藩祖保科正之公が来訪した際に「攬勝亭」と命名されました。
元禄時代に第3代会津藩主正容公が家臣丹羽勘右衛門宗能に監督・管理にあたらせ、修景(庭の改築)がされました。以後、事実上藩営の庭となりました。
歴代の藩主の鷹狩りなどの往復の休息所に使われたと言います。容保公などの歌碑などが存在します。
文化年間の樺太出兵、江戸湾防備などに功績があった名家老丹羽能教が引退後に攬勝亭に住み、昌平黌教授安積艮斎がその事を「攬勝亭記」に書いています。
戊辰戦争時には朱雀隊、青龍隊などの陣屋となり、薩摩十八番隊に焼き討ちにされました。
明治22年頃までは長尾氏が所有していましたが、その後、所有者が転々としました
大正15年に森氏が購入、和風の住宅や茶室を建てるなど整備されました。
昭和19年から戦後に掛けて、マルニ工芸漆器製作所の関係者が所有しましたが、ドッジラインの影響などで倒産しました。
昭和31年に前所有者のS家が購入、再度手入れがされました。
令和元年12月9日に会津若松市が開発許可を出しました。
令和元年12月16日に積水ハウス不動産東北が購入しました。