会津の地に本格的に漆工芸が根付いたのは、天正十八年(1590)豊臣秀吉の命を受けて会津の領主となった蒲生氏郷(がもううじさと)公が産業として奨励したことによります。氏郷公が故郷の日野(滋賀県)から木地師(きじし)や塗師(ぬりし)を招いたことで、会津塗が産業として発展する基盤が作られました。
江戸時代には会津藩の藩祖・保科正之(ほしなまさゆき)公が漆の木の保護育成に努め、また、歴代藩主も漆器産業を重要視し、江戸を主要な移出先とする一大産地となっていったのです。
江戸中期には消費地江戸での競争力強化が求められました。
家老田中玄宰(たなかはるなか)による寛政の改革の一環として、京都から消粉蒔絵(けしふんまきえ)の技法が導入され、以後、会津塗の特色ある加飾技術が発展していきます。技術進化の成果が「会津絵」という代表的蒔絵の発展につながりました。
幕末の横浜開港と共に、漆器の海外輸出も本格化しています。
しかし、戊辰戦争では職人の大半が避難を余儀なくされました。そのため、しばらく生産が止まり、会津漆器は壊滅的な打撃を受けてしまいますが、改めて復興への模索が始まります。
明治14年に褒章条例が施行され、会津は木盃の受注に成功しますが、厳格な規格に適合する製品作りが求められました。
これが、鈴木式摺り形ロクロ(倣い旋盤)の発明や平極蒔絵(ひらごくまきえ)の導入の契機となりました。
明治の中期には鉄道開通も追い風となって販路が拡大し、会津は日本有数の漆器産地に成長しました。
技術者養成のための徒弟学校(後に工業学校)が開校され、新規図案のコンテストなども開催されました。当時の入選作が今に伝わる「錦絵」や「菊桐朱磨(きくきりしゅみがき)」です。
前述の鈴木式ロクロに加えゴム版蒔絵の技法が工夫され、大正4年の大正天皇即位に際しては、記念の養老盃35万個の短期納品を成し遂げ、高品質の木盃を量産できる産地としてその名を轟かせるに至っています。
昭和初期には漆器木工指導所(工業試験場の前身)が設立され、燻蒸乾燥設備の導入による木地品質の安定化などにも取組んでいます。
産地成立以来、一貫して大都市移出型で競争が厳しく、付加価値を高める蒔絵が重要視されました。
そのため他産地に比べて蒔絵師が極めて多く、昭和16年には塗師数:蒔絵師数の比率が10:9にも上っていました。
第二次大戦後には、アルマイト素地の金胎漆器に会津ならではの華やかな蒔絵を施した米国向け輸出漆器が隆盛を極めました。
残念ながら、為替の変動に伴い輸出漆器は下火になりましたが、津田得民(つだとくみん)ら傑出した蒔絵師が考案した当時の図案は現在まで貴重な財産として受け継がれています。
四百年という時を超えて生き抜いた伝統の技の上に、常に最新技術を積極的に取り入れ会津漆器は現在まで成長を続けています。
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会津塗の工程と主な技法、用具など